
Myorinji Temple Nobuyuki Manual


Myorin-ji Original Nobuyuki Encyclopedia
At Myorin- ji, we distribute the Myorin-ji original memorial service to attendees and worshipers of the Buddhist temple for free.
Myorin-ji Nobuyuki's guideline is full of explanations about Buddhism and sutras as well as the Lotus Sutra. Please take it home when you come to the temple.
The PDF version of the Myorinji Nobuyuki Manual is distributed free of charge, so feel free to download it.
Myorinji original Nobuyuki guide slide show

妙輪寺信行要典

妙輪寺信行要典

妙輪寺信行要典

妙輪寺信行要典
道場偈(声明)
我此道場如帝珠 十方三宝影現中
我身影現三宝前 頭面摂足帰命礼
「道場偈(どうじょうげ)」は、法要のいちばん初めに唱え、これからの読経・祈りの舞台を整える声明です。日蓮宗では三宝――仏(久遠実成の釈尊)・法(妙法蓮華経)・僧(日蓮大聖人・またはその教えを実践する清らかな集い)を、この本堂にお迎えし、ここを仏の働きが満ちる“道場”として確立する意味があります。文中にある帝釈天の「因陀羅網(いんだらもう)」のたとえは、無数の玉が互いに映し合って輝く姿を示し、三宝と私たち、そして参詣者同士のいのちが相即して光を放つことを表しています。
「帰命礼」で頭、両肘、両膝を地につける礼拝、五体投地をしたのち両手を上に広げてお釈迦さまのお御足頂戴(頂足)します。五体投地・頂足の所作は、身を低くして三宝に帰依する決意のあらわれです。これは「私の一念を妙法に合わせ、仏のいのちと一体になって生きます」という誓願です。こうして道場偈を唱えることで、日常の空間が法華経の世界へと転じ、題目の唱和の実践が、迷いを照らす確かな行となります。
要するに道場偈は、法要のスイッチを入れる祈り。三宝をお迎えし、自身の心を整え、これからの読経を成仏への歩みに結び直す“開場の宣言”なのです。
三宝礼(声明)
一心敬礼 十方一切 常住仏
一心敬礼 十方一切 常住法
一心敬礼 十方一切 常住僧
三宝礼(さんぼうらい)は、道場偈でお迎えした三宝[「仏・法・僧」に、あらためて帰依と感謝をささげる結びの宣言です。日蓮宗でいう仏は「久遠実成の釈尊」、法は「妙法蓮華経」、僧は「日蓮大聖人」であり、私たちは三宝に身心を委ねて歩むことをここで明言します。文句は「本師釈迦牟尼仏に帰依します」「妙法蓮華経に帰依します」「上行菩薩の自覚に立つ宗祖日蓮大菩薩に帰依します」と、一心に礼拝・帰依を重ねる内容です。これは「南無妙法蓮華経」の題目実践日常で貫く誓いを、声と言葉で確かめる儀礼ともいえます。
作法上の要点も大切です。「立」の記号の合図で静かに立ち上がり、体を大きく前傾させながら合掌の手を前へ差し出し、つづけて正座に戻り深く頭を垂れる。これが「曲躬低頭(こくぐていず)」という礼拝です。自我を低くし、三宝の前に身を運び出して帰依を示す、所作そのものが祈りになります。曲躬低頭は礼拝の所作の中でも、最も丁寧で深い礼拝のカタチとなります。
三宝礼は、仏のいのち(仏)・真実の教え(法)・ともに歩む宗祖(僧)に自分を重ね直し、法華経の道へと心を整える時間です。声を合わせ、身を低くして礼拝するほど、散っていた心が一つに集まり、いただいた功徳を日常の精進へ持ち帰る力が養われます。参詣者は合掌をととのえ、言葉と所作で「今日からまた妙法を生きる」決意を新たにしましょう。
切散華(声明)
欲説法華経 香華 供養仏
大哉大悟 大聖主 香華 供養仏
願以此功徳 香華 供養仏
「切散華(きりさんげ)」は、道場にお迎えした釈尊へ花びら(華葩・ケハ)を供える声明です。日蓮宗では、久遠の釈尊が今まさに法華経を説かれると観じ、その功徳に感謝して香華を捧げます。文意は「釈尊が法華経をこれから説こうと欲されています。仏に華を供養しましょう。大なるかな。釈尊が完全円満な悟りを開かれました。仏に華を供養しましょう。願わくは法華経の功徳をもって。仏に香華を供養しましょう。」という誓いの言葉です。花は、私たちの信心と善根が開く“功徳の芽生え”の象徴。香りは迷いを清め、心を仏へ向ける導きとされます。
曲名の「切」は、もともと天台声明にある長大な散華法を、法要次第に合わせて簡略(切り詰め)して唱える意を示します。日蓮宗は天台声明の伝統を受けつぎつつ、題目実践を生かす形で歌い方を整えてきました。
法会で撒かれた花びら(華葩・ケハ)は、加護のしるしとしてぜひお持ち帰りください。家に祀れば、日々の合掌のたびに「法華の慈悲に守られて生きる」という確信を思い起こさせ、静かな安心と精進の力を育みます。
勧請
謹んで勧請し奉る 南無輪円具足未曽大曼荼羅ご本尊 南無平等大慧 一乗妙法蓮華経 南無久遠実成大恩 教主本師釈迦牟尼仏 南無證明 法華多寶大善逝 南無十方分身三世の諸佛 南無上行 無邊行 淨行 安立行等 本化地湧の諸大士 南無文殊 普賢 彌勒 薬王 薬上 勇施 妙音 觀音等 迹化他方來の大權の薩 南無身子 目連 迦葉 阿難等 新得記の諸大聲聞 一乗擁護の諸天善神 総じては法華経中 常住一切の 三宝殊には末法有縁の大導師高祖日蓮大菩薩 六中九老僧等 宗門歴代 如法勲功の先師先哲 福聚山妙輪寺開山 大経阿闍梨日輪聖人以来歴代の諸上人 並びに○○家先祖代々の諸精霊 当山勧請の善神 の御宝前に於いて本日主旨奉る処○○回忌に相値処 ○○霊位 来到道場 知見照覧 御法味納受
勧請(かんじょう)とは、法要を始める前に「この場を仏の道場とし、どうぞおいでください」と、諸天善神やご先祖さまをていねいにお迎えする願文です。日蓮宗では、久遠実成の釈尊(仏)と妙法蓮華経(法)、その教えを受け持つ僧(僧)を中心に、釈尊の弟子方・諸菩薩・諸天善神、宗祖日蓮大聖人、寺に連なる歴代の祖師・先師、そして各家の先祖諸霊に至るまで、広く招請します。これは「南無妙法蓮華経」を軸に、仏と私たちが“同じ一座”で結ばれるための開式の祈りです。
ここに収める勧請文は、妙輪寺で行う追善供養(○○回忌などの法事)のための一例です。式次第に沿って導師が独唱しますが、ご家庭の仏壇でお一人でお唱えしても差し支えありません。なお、青文字で示した箇所は、菩提寺が妙輪寺でない場合、その寺院名と開山上人のお名前に差し替えてください。寺の縁起と法脈を正しくお呼びすることが、功徳を清らかにします。
また、この勧請は「追善供養(法事など)」の式に合わせた文面です。追善以外(日常のお勤め・祈願・年中行事・報恩感謝など)の法要では、緑文字の部分は読み上げません。趣旨に合うように文言を整えるのが作法です。
勧請の心はむずかしくありません。合掌し、姿勢を正し、「どうぞお越しください。ともに妙法を礼讃し、この功徳を故人と一切衆生に回します」と素直に願う、それが肝要です。勧請によって場が清められ、続く読経・題目の一つひとつが、確かに成仏の道につながっていきます。
開経偈
無上甚深微妙の法は
これ以上なく深くすぐれた教え(法華経)は
百千万劫にも遭い奉ること難し
どれほど長い歳月を重ねても、出会うのが難しいほど貴重です。
我今見聞し 受持することを得たり
今まさにその教えを見聞きし、受け持つご縁をいただきました。
願わくは如来の第一義を解せん
どうか仏の核心の教えを、正しく理解し身につけられますように。
至極の大乗思議すべからず
最もすぐれた大乗の道は、人の思案をこえるほど深遠です。
見聞触知皆菩提に近づく
それでも、見て・聞いて・触れて・学べば、必ず仏の境地に近づけます。
能詮は報身 所詮は法身
説き示すのは仏のおはたらき、その内容は仏の真理そのものです。
色相の文字は 即ち是れ応身なり
経文の一字一句は、今ここに現れた仏のお姿と受けとめます。
無量の功徳 皆この経に集まれり
数えきれない功徳が、この法華経に集約されています。
是故に自在に冥に薫じ密に益す
だから信じて受け持てば、香がしみ込むように、知らぬ間に利益が身につきます。
有智無智罪を滅し善を生ず
学ある人もない人も、過去の過ちを清め、善い行いが芽生えます。
若しは信 若しは謗 共に仏道を成ぜん
信じる人も批判する人も、やがては仏の道へ導かれます。
三世の諸仏 甚深の妙典なり
過去・現在・未来の諸仏も、この深い妙典によって成仏されました。
生生世世 値遇し頂戴せん
生まれ変わっても何度でも、この教えに出会い、大切にいただきます。
開経偈(かいきょうげ)は、法華経を拝読する直前に唱える“扉”の偈です。「無上甚深微妙の法は・・・」と、久遠実成の釈尊の教え(妙法)に出会えた歓びと学ぶ決意を言葉にし、散った心を一つに集めて読経の場を整えます。偈(げ)とは調べ(リズム)と韻を備えた仏教の詩で、音声にのせることで教えが胸に刻まれやすくなります。日蓮宗では朝夕の勤行でもまず開経偈を唱え、つづく題目「南無妙法蓮華経」へ自然に心をつないでいきます。
作法も大切です。日蓮宗では「思議すべからず」までは合掌を保ち、「見聞触知」で経本を両手で持ち、目の高さまでそっと掲げます。さらに「値遇(ちぐう)し頂戴せん」で軽く頭を下げ、掲げた経本をおろします。この一連の所作を「頂経(ちょうきょう)」といいます。経を“いただく”身の置き方を形で示し、法に対する恭敬と受持の決意をからだ全体で表す、日蓮門下ならではの礼法です。
読み方にも地域性があり、「仏道を成ぜん」を「仏道を成ず」とお唱えする場合もあります。
なお、開経偈は多くの宗派で用いられますが、文句や長さに相違があります。ここで示すのは日蓮宗の開経偈で、他宗に比べやや長文です。そのぶん讃嘆と受持の決意が重層に語られ、法華経拝読の基礎をしっかり築く構成になっています。
つまり開経偈は、単なる前置きではありません。妙法への敬いを声と所作で確かめ、心身を道場へと切り替える“開場の儀”。頂経の一礼までを丁寧におさめ、題目へ、そして日々の実践へ歩み出しましょう。
妙法蓮華経 方便品第二
爾時世尊 従三昧 安詳而起 告舎利弗 諸仏智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入 一切声聞 辟支仏 所不能知 所以者何 仏曾親近 百千万億 無数諸仏 尽行諸仏 無量道法 勇猛精進 名称普聞 成就甚深 未曾有法 随宜所説 意趣難解 舎利弗 吾従成仏已来 種種因縁 種種譬諭 広演言教 無数方便 引導衆生 令離諸著 所以者何 如来方便 知見波羅蜜 皆已具足 舎利弗 如来知見 広大深遠 無量無礙
力 無所畏 禅定 解脱 三昧 深入無際 成就一切 未曾有法 舎利弗 如来能種種分別 巧説諸法 言辞柔軟 悦可衆心 舎利弗 取要言之 無量無辺 未曾有法 仏悉成就 止 舎利弗 不須復説 所以者何 仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等
『方便品第二』は、法華経の“入り口にして中心”。お釈迦さまは、人それぞれの理解や状況に合わせて導く〈方便〉を明らかにし、最終目的はただ一つ。「一仏乗(誰もが成仏できる道は一つ)」だと宣言します。ここで特に重んじるのが「諸法実相」。ものごとの“ほんとうの姿”を示す言葉で、その見方を具体化したのが続く「十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)」です。外見(相)や中身の性質(性)、成り立ち(因・縁)から結果(果・報)、始めから終わりまでの筋道(本末究竟等)に至るまで、人生の出来事・悩み・喜びすべてが仏道の成長材料であることを教えます。
日蓮宗が朝夕の勤行でこの十如是を重ねて拝読するのは、「今の自分の場所から真実へ向かう」歩みを毎日確かめるためです。では、なぜ十如是を“3回”読むのか。これは、日蓮宗が大切にする天台の教え「一念三千(いちねんさんぜん)」に基づき、十如是の真実が「三種の世間(三世間)」すべてに貫かれていることを体感的に刻む作法だからです。
衆生世間(人びとの世界)
私(心と行い)の現実
五陰世間(身心のはたらき)
体と心の諸働き(色・受・想・行・識)
国土世間(環境の世界)
私たちを取り巻く社会・自然
十如是を一巡ごとに「自分(心身)」「人びと(他者)」「環境(社会・自然)」へと当てはめて読むことで、自他環境のすべてが妙法に貫かれていると観じます。これは、題目〈南無妙法蓮華経〉の実践(受持・読誦・解説・書写)が、自分一人の心の安定だけでなく、関わる人や場にも利益(りやく)を広げていくという日蓮宗の生きた信心にそのまま重なります。
つまり、方便品の読誦は“宣言”、十如是は“観点”、三度の繰り返しは“適用領域”の確認です。題目とともに拝むほど、「誰もが成仏できる」という確信が日々の生活に根を下ろし、迷いのなかでも一歩を踏み出す勇気が養われます。
妙法蓮華経 提婆達多品第十二(訓読)
深くー罪福のー相をー達しーてー。遍くー十方をー照しーたーもう。微妙のー浄きー法身。相をー具せるーこーとー三十二。八十種好をー以てー。用ってー法身をー荘厳せーりー。天人のー戴仰する所。龍神もー咸くー恭敬すー。一切衆生のー類。宗奉せざるー者なーしー。又聞いてー菩提をー成ずるこーとー。唯仏のーみー。當にー証知したもうべーしー。我大乗のー教をー闡いーてー。苦の衆生をー度脱せん。爾の時にー舎利弗。龍女にー語ってー言わくー。汝久しーからずーしーてー。無上道をー得たりーとー謂えーるー。是の事信じー難しー。所以はー何ん。女身はー垢穢にーしーてー是れー法器にー非ずー。云何ぞー能くー。無上菩提をー得ん。仏道はー懸曠なーりー。無量劫をー経てー。勤苦しーてー行をー積みー。具さーに諸度をー修しー。然しーてー後にー乃ちー成ずー。まーたー女人のー身にはー。猶五のー障りーあーりー。一にーはー梵天王とーなることをー得ずー。二にはー帝釈。三にーはー魔王。四にはー転輪聖王。五にはー仏身なーりー。云何ぞー女身。速かにー成仏することをー得ん。爾の時にー龍女一つーのー宝樹あーりー。価直三千大千世界なーりー。持ってー以てー仏にー上るー。仏即ちー之をー受けたーもう。龍女。智積菩薩。尊者舎利弗にー謂ってー言わくー。我宝樹をー献るー。世尊のー納受。是の事疾しやー。不やー。答えーてー言わくー。甚疾しー。女のー言わくー。汝がー神力をー以てー。我がー成仏をー観よー。復これよりもー速かなーらん。當時のー衆会。みーなー龍女のー忽然のー間にー。変じーてー男子とー成ってー。菩薩のー行をー具してー。即ちー南方無垢世界にー往いてー。宝蓮華にー坐してー等正覚をー成じー。三十二相。八十種好あってー。普くー十方のー。一切衆生のー為にー。妙法をー演説するをー見るー。爾の時にー娑婆世界のー。菩薩。声聞。天龍八部。人とー非人とー。皆遥かーに彼のー龍女のー成仏しーてー。普くー
時のー会のー人天のー為にー。法をー説くをー見てー。心大いーにー歓喜しーてー。悉くー遥かーにー敬礼すー。無量のー衆生。法をー聞いてー解悟しー不退転をー得。無量のー衆生。道のー記をー受くるーことをー得たりー。無垢世界。六反にー震動すー。娑婆世界のー三千のー衆生。不退のー地にー住しー。三千のー衆生。菩提心をー発しーてー。授記をー得たりー。智積菩薩。及びー舎利弗。一切のー衆会。黙然とーしーてー信受すー。
『提婆達多品第十二』は、法華経が説く「すべてのいのちに成仏の道がひらかれている」ことを、二つの鮮やかな実例で示す章です。第一は、仏さまを迫害した提婆達多に、未来の成仏が授けられる場面。過ち多い者を切り捨てるのではなく、「心を転じれば誰でも仏へ至れる」という、法華経の大きな赦しと希望が明らかにされます。日蓮聖人は、逆境や迫害すら仏道を強くする縁となると受け止め、題目の信心で悪縁を善縁に転ずる道を示しました。ここには、他者を一面で断じないまなざしと、自身の弱さを力へ変える智慧が示されています。
第二は「龍女成仏」。八歳の龍王の娘が宝珠をささげ、その場で即座に仏となる物語です。当時「女性は成仏しにくい」との偏見がありましたが、この章はそれを正面から破り、人間でない存在(龍)すらも成仏できると宣言します。性別・年齢・身分・姿かたちに関係なく、いのちそのものに仏性が具わる——これが法華経の核心です。日蓮宗では、この平等観を「女人成仏・一切成仏」の根拠として重んじ、在家・出家の別なく題目を根本の修行とします。
では、私たちはどう生かすのか。日々の暮らしで、弱い立場の人や子ども、自然や動物を敬い、差別や自己否定を手放す実践を積むことです。提婆達多の物語は「過去の過ちで未来は決まらない」ことを、龍女の物語は「今ここで心が決まれば、境地は転ずる」ことを教えます。日蓮聖人は、題目「南無妙法蓮華経」を唱える一念に、男女・賢愚・老若の差別はないと説きました。受持・読誦・解説・書写の実践に、慈悲と尊敬の姿勢を重ねるとき、私たちの関係や環境(自他彼此・社会)にも利益が広がっていきます。
要するに、この品は「誰もが成仏できる」という抽象を、〈悪人成仏〉と〈女人成仏〉という二つの具体で示した章です。題目を根本に、偏見を脱ぎ、他者と自分の可能性を信じる。その決意を新たにするたび、法華経の平等と希望が、私たちの現実に息づいていきます。
なお、経文の唱え方には「真読(しんどく)」と「訓読(くんどく)」の二種があります。真読は漢字音でそのまま音読し、原義の響きを尊ぶ唱え方。訓読は和語の語順に読み替えて意味を味わう唱え方です。本冊子では、妙輪寺の法事作法に合わせ『提婆品』を訓読で収載していますが、真読で唱えてもまったく問題ありません。肝要なのは、提婆達多と龍女が示す“誰一人漏らさない成仏”への確信を抱き、題目を根本に自他の可能性を信じて唱えることです。そうしてはじめて、この品の功徳が生活の中に具体的な力として現れてきます。ちなみに、動画では妙輪寺住職は比較的早めにお唱えしていますが、本来「訓読」でお唱えする場合は、お経の意味を参列者に解説するかのように“ゆっくり”とお唱えします。
妙法蓮華経 如来寿量品第十六
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度 我見諸衆生 没在於苦海 故不為身現 令其生渇仰 因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫 常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時 我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量 久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生憍恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
『如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうほん)』は、法華経の「心臓部」といわれる章です。ここで明かされるのは、お釈迦さまは昔に亡くなった方ではなく、量れないほど長い“いのち”をもって、今も私たちを導いているという真実。これを日蓮宗では「久遠実成(くおんじつじょう)」と受けとめます。仏のいのちは切れ目なく働き、迷いや不安のただ中にある私たちを、いつでも照らし続けている。まずはこの“安心”を胸に据えることが、寿量品の核心です。
寿量品には、良医と子どもたちの譬えが語られます。名医が毒された子を治すため、いったん遠くへ去って死んだかのように見せると、子らは「本当に必要だ」と気づいて薬を飲む。仏もまた、一度は目に見えない存在となることで、私たち自身の信と実践を目覚めさせます。姿は見えなくとも仏はそばにおり、気づけばいつでも応える。そう受けとめると、孤独や恐れはやわらいでいきます。
日蓮宗が寿量品をあらゆる法要で拝読するのは、この“尽きない導き”を一座の全員に行き渡らせるためです。追善供養では、亡き方のいのちが仏の大いのちに抱かれていると確信し、私たちはその働きを信じて歩む決意を新たにします。日々の勤行では、寿量品を読み、続けて題目「南無妙法蓮華経」を唱えることで、久遠の仏と私たちが“声”で直結します。題目は仏のいのちと同通する鍵――声に出すたび、心は静まり、今ここから善く生きる力が湧き上がります。
寿量品は日蓮宗の実践の土台です。「誰もが成仏できる」という方便品の宣言を、永遠の仏のはたらきとして裏づける章であり、三大秘法(本尊・題目・戒壇)を尊ぶ信心の重心となります。だからこそ、年中の法要でも日々の勤行でも寿量品を大切に読み重ねます。読むたびに、仏のいのちと私たちのいのちが離れないことを確かめ、今日の一歩に希望を灯す、それが寿量品の生きた功徳なのです。
ここで拝読するのは寿量品の中の偈文、「自我得仏来」ではじまる部分で、通称「自我偈(じがげ)」と呼びます。寿量品を全文読むには時間を要するため、法事など参列者とともに唱える場では、声に合わせやすい自我偈を拝読します。これは、だれもが参加しやすい形で久遠の仏のはたらきを身に受けるための〈方便〉でもあります。自我偈を誠実に唱え、続けて題目「南無妙法蓮華経」を称えることで、成仏へ向かう一歩を確かに重ねていきます。
妙法蓮華経 如来神力品第二十一(訓読)
爾時にー佛。上行等のー菩薩。大衆にー告げたまわーくー。諸仏のー神力はー是のー如くー。無量無邊不可思議なーりー。若し我こーのー神力をー以てー。無量無邊百千萬億阿曾祇劫にー於てー。屬累のー爲のー故にー。此の經のー功徳をー説かんにー。猶つくすーこーとー能わーじー。要をー以てー之をー言わばー。如來のー一切のー所有のー法。如來のー一切のー自在のー神力。如來のー一切のー祕要のー藏。如來のー一切のー
甚深のー事。皆この經にー於いてー宣示顯説すー。是の故にー汝等。如來のー滅後にー於いてー。應當にー一心にー受持。讀誦しー。解説。書寫しー。説のー如くー修行すべしー。所在のー國土にー。若しはー受持。讀誦しー。解説。書寫しー。説のー如くー修行し。若しはー經卷所住のー處あーらん。若しはー園のー中にー於いてーも。若しはー林のー中にー於いてーもー。若しはー樹の下にー於いてーもー。若しはー僧坊にー於いてーもー。若しはー白衣のー舍にてもー。若しーは殿堂にー在ってーもー。若しはー山谷曠野にてもー。是の中にー皆塔をー起ててー供養すべしー。所以はー何。當にー知るべーしー。是の處はー即ちー是れー道場なーりー。諸佛ここにー於いてー阿耨多羅三藐三菩提をー得。諸佛ここにー於いてー法輪をー轉じ。諸佛ここにー於てー般涅槃したもう。
『如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一』は、仏(久遠実成の釈尊)の計り知れない力=神力を示し、法華経を未来へ受け継ぐ使命(付嘱=ふぞく)を菩薩に託す章です。ここでいう神力とは、手品のような超能力ではありません。迷いを破り、人を励まし、善い方向へと動かす仏のはたらきのことです。あわせて説かれる加持(かじ)は、仏のはたらき(加)と、私たちの信と実践(持)が重なって発動する力を意味します。
品中では、仏が舌を広く伸ばし(舌相=ぜっそう)、身口意の毛孔から光を放ち、諸仏・菩薩がその真実を証明する荘厳なシーンが描かれます。これは、「この教えは永遠の真理であり、必ず人を幸せへ導く」ことの公証を象徴します。そして結びに、法華経を広めなさい、苦しむ人に希望を届けなさいと、菩薩に付嘱(使命の引き継ぎ)がなされます。
ここで強調される実践が、日蓮宗の根本である「受持・読・誦・解説・書写」です。
受持:教えを受けとめ、日々の生き方として持ち続けること
読:経文の文字を目で追いながら読むこと
誦:経文を暗記して、文字を見ずに唱えること
解説:自分の言葉で伝えること
書写:文字に写し留めること
これらは、題目「南無妙法蓮華経」を中心に「生きる者が誓いを継いでいく」具体の行です。
妙輪寺では、とりわけ男性のご供養でこの品を拝読することがあります。そこには、家族・子孫を守護し、故人の志や家業・信仰を“つなぐ”という祈りが重ねられてきました。神力品の付嘱の精神=受け継ぎの誓いが、追善の席にふさわしいからです。「私たちが受け継いで歩みます」という決意が、ご供養の功徳を現実の安心・繁栄へと結びます。
また、読み方にも触れておきます。妙輪寺の法事では訓読(くんどく、日本語の語順に読み下して意味がわかるように読む)でお唱えしますが、真読(しんどく)——漢文の音読(漢音・呉音)で響き重視に読む——でもまったく問題ありません。訓読は理解と共感が深まり、真読は音声による荘厳と集中が高まります。いずれも加持を得る正しい読誦です。
妙法蓮華経 陀羅尼品第二十六
五番神咒
安爾 曼爾 摩禰 摩摩禰 旨隷 遮梨第 棄竿 棄履 多喜 羶帝 目帝 目多履 沙履 阿喜沙履 桑履 沙履 叉裔 阿叉裔 阿耆膩 羶帝 棄履 陀羅尼 阿盧伽婆娑 簸蔗毘叉膩 禰毘剃 阿便潅 邏禰履剃 阿亶潅波隷輸地 急究隷 牟究隷 阿羅隷 波羅隷 首迦差 阿三磨三履 仏駄毘吉利 宴帝 達磨波利差帝 僧伽涅瞿沙禰 婆舎婆舎輸 曼潅邏 曼潅邏叉夜多 郵楼潅 郵楼潅 隠舎略 悪叉邏 悪叉冶多冶 阿婆盧 阿摩若 那多夜
あに まに まね ままね しれい しゃりてい しゃみゃ しゃび たい せんてい もくてい もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび しゃえい あしゃえい あぎに せんてい しゃび だらに あろきゃばしゃ はしゃびしゃに ねいびてい あべんた らねいびてい あたんだはれい しゅだい うくれい むくれい あられい はられい しゅきゃし あさんまさんび ぼっだびきり じってい だるま はりし てい そぎゃねくしゃねい ばしゃばしゃしゅだい まんたら まんたら しゃやた うろた うろた きょうしゃりゃ あしゃら あしゃやたや あばろ あまにゃ なたや
碓隷 摩訶碓隷 郁枳 目枳 阿隷 阿羅婆第 涅隷第 涅隷多婆第 伊緻株 韋緻株 旨緻株 涅隷滑株 涅犁滑婆底
ざれい まかざれい うっき もっき あれい あらはてい ねれてい ねれいたはてい いちに いちに しちに ねれいちに ねりちはち
阿犂 那犂 傾那犂 阿那盧 那履 拘那履
あり なり となり あなろ なび くなび
阿伽禰 伽禰 瞿利 乾陀利 旃陀利 摩牙耆 常求利 浮楼莎株 穏底
あきゃね きゃねい くり けんだり せんだり まとうぎ じょうぐり ぶろしゃに あっち
伊提履 伊提泯 伊提履 阿提履 伊提履 泥履 泥履 泥履 泥履 泥履 楼醯 楼醯 楼醯 楼醯 多醯 多醯 多醯 兜醯 傾醯
いでいび いでいびん いでいび あでいび いでいび でいび でいび でいび でいび でいび ろけい ろけい ろけい ろけい たけい たけい たけい とけい とけい
得無生法忍
とくむしょうぼうにん
『妙法蓮華経 陀羅尼品(だらにぼん)第二十六』は、法華経を信じて実践する人を護るための「陀羅尼(だらに)」が示された章です。陀羅尼とは、仏の教えの要点を“音のかたまり”としてとどめた「お守りの言葉=咒文(じゅもん)」のこと。意味を細かく解釈するのでなく、正しい音で受持することで、心が整い、善い方向へ導かれると説きます。
この章では、薬王菩薩(赤文字)・勇施菩薩(緑文字)・毘沙門天(紫文字)・持国天(青文字)・十羅刹女と鬼子母神(橙文字)が次々に陀羅尼を唱え、「この言葉を受持する人を必ず護ります」と誓います。薬王は病苦に効く“癒やし”、勇施は恐れを退ける“勇気”、毘沙門・持国は魔障を破る“守護”、十羅刹女と鬼子母神は生活と子どもを護る“慈母のちから”を象徴します。結びに現れる「得無生法忍(とくむしょうぼうにん)」は、「迷いに揺れない安らぎ=悟りの一端に至る」という意味で、受持の実践が安心と成熟へ導くことを示します。
読み方にも大切な作法があります。法華経の経文本体は、漢文として日本に伝わった歴史を尊び、漢文化された通りにお唱えします。しかし陀羅尼は“咒文”であり、2,500年前のインドで説かれた当時の発音に近い音で響かせることに意味があります。ですから、この品を読誦するときは、陀羅尼の部分だけ当時の音に近づけて唱えるのが基本です。意味を頭で追うより、正音のリズムで心身を整えることが要です。
本来の陀羅尼品は長い構成ですが、ここでは各尊がとなえた陀羅尼の要所だけを抜粋しています。これを伝統的に「五番神咒(ごばんじんじゅ)」とも呼びます。薬王(赤)・勇施(緑)・毘沙門(紫)・持国(青)・十羅刹女・鬼子母神(橙)と色を添えるのは、誰の陀羅尼かを直観的に識別し、唱え分けを容易にするためです。日蓮宗では、祈願・祈祷の場で頻繁に用い、病気平癒・災難除滅・家内安全・子どもの成長・事業繁栄など、生活の具体的な願いに当てて唱えます。
妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品第二十八
普賢咒
阿檀地 檀陀婆地 檀陀婆帝 檀陀鳩棄隷 檀陀修陀隷 修陀隷 修陀羅婆底 仏駄波羶禰 薩婆陀羅尼 阿婆多尼 薩婆婆沙 阿婆多尼 修阿婆多尼 僧伽婆履叉尼 僧伽涅 伽陀尼 阿僧祇 僧伽婆伽地 帝隷阿惰 僧伽兜略 阿羅帝 波羅帝 薩婆僧伽 三摩地 伽蘭地 薩婆達磨 修波利刹帝 薩婆薩嬉楼駄 隠舎略 阿傾伽地 辛阿毘吉利地帝
あたんだい たんだはだい たんだはてい たんだくしゃれ たんだしゅだれ しゅだれ しゅだらはち ぼっだはせんねい さるばだらに あばたに さるばばしゃ あばたに しゅあばたに そぎゃはびしゃに そぎゃね ぎゃだに あそぎ そぎゃはぎゃだい てれあだ そがとりゃ あらて はらて さるばそぎゃ さんまじ きゃらんだい さるばだるま しゅはりせってい さるばさったろだ きょうしゃら あとぎゃだい しんなびきりだいてい
普賢咒(ふげんじゅ)は、『妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつ かんぼっぽん)第二十八』に説かれる「陀羅尼(だらに:仏の教えの力を“音”として保つ咒文)」の抜粋です。普賢菩薩は「法華経を受持する人を必ず護る」と誓い、その誓いを具体の“響き”として示したのがこの咒です。唱える功徳は、罪障消滅(過去の過ちを清める働き)、災難除去、病気平癒、心願成就など、日々の不安を越えて信心を続ける勇気と精進の力へと結びます。
五番神咒でもお話ししましたが、法華経の本文は中国で漢文に整えられて伝わったので、漢文化されたとおりにお唱えします。一方、陀羅尼は咒文であり、インドで説かれた当時の発音(サンスクリットの音)に近づけて唱えることに意味があります。したがって、普賢咒の箇所は当時の音に準じた独特の発声で読み上げ、意味を細かく追うよりも正しい響きで心身を調えることを重視します。これは、日蓮宗が「声の行」を重んじ、題目(南無妙法蓮華経)とともに功徳を“音でいただく”実践を大切にしてきたためです。
経典の構成として、普賢勧発品は本来は長い章ですが、ここに載せるのは普賢菩薩が唱えた陀羅尼だけを抜き出したものです。これを一般に普賢咒と呼び、日蓮宗の祈願・祈祷の場でよくお唱えします。実際の次第では、まず『陀羅尼品第二十六』から抜粋した五番神咒(薬王・勇施・毘沙門・持国・十羅刹女・鬼子母神)を唱え、その流れを受けて普賢咒を続けます。こうして護りの咒(五番神咒)で身心と場を堅固にし、励まし・発願の咒(普賢咒)で受持の決意を新たにする。この二段構えが、法華経の信心を日常に根づかせる力となります。
日蓮宗の眼目は、受持・読・誦・解説・書写の四つの実践を、題目を根本に積み重ねることです。普賢咒は、その歩みを音声で支える“助走”であり“推進力”。朝夕の勤行や祈願の一座のなかで、心を静め、声を調え、普賢の誓いに自らを重ねて唱えるほど、迷いは和らぎ、行いは整い、確かな安心と前向きの力が育っていきます。
妙法蓮華経 見宝塔品第十一
宝塔偈
此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進 是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道 能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地 仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼 於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養
しきょうなんじー にゃくざんじーしゃー がそくかんぎー しょぶつやくねん にょぜしーにん しょぶつしょーたん ぜそくゆうみょう ぜそくしょうじん ぜみょうじかい ぎょうづだーしゃー そくいしっとく むじょうぶつどう のうおーらいせー どくじしきょう ぜしんぶっしー じゅうじゅんぜんちー ぶつめつどーごー のうげごーぎー ぜしょーてんにん せけんしーげん おくいーせー のうしゅーゆーせつ いっさいてんにん かいおうくよう
「宝塔偈(ほうとうげ)」は、『妙法蓮華経 見宝塔品(けんほうとうほんん)第十一』から抜粋した偈文(げもん:韻律をもつ仏教の詩)です。内容は、地中から宝塔(ほうとう:真理を証明する象徴の塔)が湧き出で、多宝如来(たほうにょらい:過去世より“法華経の説は真実である”と証明する仏)が現れて、釈尊の説法を「まこと」と讃嘆する場面の要約です。すなわち、いま私たちが拝する法華経の教えが永遠の真理であることを、仏自らが公証している章の核心を、短い偈に凝縮したもの、それが宝塔偈です。
日蓮宗で宝塔偈を法要に取り入れるのは、この真実証明の出来事を、読誦という行為で今日の私たちの胸に“刻印”するためです。「聞いて終わり」にせず、声と言葉で「私はこの真理を受け取り、生活で生かします」と誓い直す、宝塔偈はその宣言の偈です。読誦の功徳として、心が静まり迷いが鎮まる、善い縁が育つ、災いや障りが軽減する、家内安全・所願成就へ導かれる、と説かれます。功徳とは超常ではなく、正しい教えに心身が整うことによる現実的な良い変化の総称です。
日蓮宗では、宝塔偈を独特のリズムで読み上げます。その由来として伝わるのが、日蓮聖人の伊豆流罪の折の出来事です。荒れ狂う海上、船上から弟子たちに向けて宝塔偈をお唱えになったところ、波が打ち寄せるうねりの拍(はく)と声が重なり、波を切り裂くような節回しに聞こえた、と伝承されます。以後、私たちは宝塔偈を唱えるとき、単に節を真似るのではなく、「いかなる法難(逆境)に遭おうとも教えを護持する」という聖人の決意を胸底に響かせて読むのです。声の芯に不退転(ふたいてん:退かない誓い)を宿すこと、これが宝塔偈の真髄です。
観心本尊抄
日蓮聖人 御妙判
今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり
仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず
所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり
「御妙判(ごみょうはん)」とは、日蓮聖人が遺した論文(書)やお手紙を総称する呼び名です。一般には「御遺文(ごいぶん)」や「祖訓(そくん)」ともいいます。法要では、その趣旨にふさわしい御妙判を選んで拝読(朗読)し、聖人の教えを“いま・ここ”の私たちの祈りに結び直します。声に出して読むことは、単なる紹介ではなく、教えを自分の身口意(しん・く・い/からだ・言葉・心)の働きに浸透させる行です。
その代表が『観心本尊抄(かんじん ほんぞんしょう)』(文永十年・1273)です。題名の「観心」とは“自分の心のありようを観る”こと、「本尊」とは“拝む対象”のことを指します。聖人は、観心も本尊も、法華経(ほけきょう/妙法蓮華経)の真理に具わると示し、私たちが題目「南無妙法蓮華経」を唱えることで、その真理と心が一体となり、成仏(迷いを離れて仏の境地に至ること)へ進むと説きます。難しく言えば、仏のいのち(妙法)が私のいのちの底に本来そなわることを観じ、その妙法を姿として現した「本尊(御本尊)」に向かって唱題することで、心が法と同通する――という道筋です。
ここで出てくる大切な柱が、日蓮宗の三大秘法(さんだいひほう)です。すなわち、本尊(妙法を図現した依処)・題目(南無妙法蓮華経)・戒壇(かいだん/妙法を受け持つところ=信の壇)。『観心本尊抄』は、この三つが生きて働く要(かなめ)を明らかにし、在家出家を問わず、日々の受持・読・誦・解説・書写の実践に落とし込みます。要するに、御本尊を敬い、題目を声にし、生活の中で妙法を選びとっていく。その積み重ねが、迷いを智慧に、苦を志に変えていくのです。
法要で御妙判を拝読する意義は、教義を“知る”にとどめず“生きる”へと運ぶことにあります。葬儀・回忌・祈願・報恩など場面ごとに、相応の一文を選んで読み上げるのは、聖人の言葉を導きの灯として、参列者の心に具体の方向を点すためです。たとえば追善の席では、「亡き人も私たちも、妙法のいのちに抱かれている」ことを確かめ、祈願の席では、「題目を根本に正しい行いを積む」決意を新たにします。
『観心本尊抄』が伝える核心は明快です。妙法は遠くに求めるものではなく、唱題の一念によって“いま・ここの心”に現れる。だから、御妙判を拝読し、御本尊に向かって題目を唱えるたび、私たちは少しずつ“仏のいのち”のはたらきを自分のものとして生き始めます。これが、日蓮宗の教えを法要から日常の一歩へとつなげる力であり、御妙判拝読の実際的な功徳なのです。
報恩抄
日蓮聖人 御妙判
日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし
日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり
無間地獄の道をふさぎぬ
此の功徳は伝教天台にも超へ龍樹迦葉にもすぐれたり
極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず 正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか
是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず時のしからしむるのみ
「報恩抄(ほうおんしょう)」は、建治二年(1276)七月、身延在山中の日蓮聖人が著した一文です。直前の六月に、聖人の出家得度の師である清澄寺の道善坊が遷化(せんげ:僧侶が亡くなること)したことを受け、その追善(ついぜん:故人に善行の功徳を回し向けること)として記されました。題名の「報恩」とは、受けた恩に報いること。聖人は、この書を通じて「師に報いるとは何か」を、法華経(ほけきょう/妙法蓮華経)の立場から明らかにします。
まず聖人は、仏教で大切にする四恩(しおん)①父母、②一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)、③国主(こくしゅ:社会を治める権者)、④三宝(さんぼう:仏・法・僧)への感謝を説きます。そして、これらの恩に最も深く報いる道は、法華経を信じ持ち、広めることだと示します。ここでいう受持とは、教えを受け入れて日々の実践として持ち続けること。日蓮宗では、その核心を題目「南無妙法蓮華経」の唱和におきます。単に感謝の言葉を述べるだけでなく、「妙法を生きる」ことで恩に報ずる、これが『報恩抄』の根本思想です。
とりわけ師僧・道善坊への報恩について、聖人は率直です。若き日の自分を受け入れ、出家の縁を結んでくれた師への深い謝意を述べつつ、真実の教えから外れることなく法華経を弘めることこそ最大の報恩だと断じます。ここには、たとえ流罪や迫害(法難)に遭っても、正しい法のために語り、祈り、歩むことが最上の供養であるという聖人の生きた覚悟が貫かれています。
さらに『報恩抄』は、「何が真実の仏道か」を見極める折伏(しゃくぶく)の精神も示します。折伏とは、他を攻撃することではなく、誤りをただし、正しく導く慈悲のはたらきです。日蓮宗においては、相手を尊びつつも、末法(まっぽう:仏滅後の教えが形骸化し人心が乱れる時代)においては法華経を根本に据えるべきだと勧めます。これにより、師にも社会にも真に益する道がひらける、それが報恩の具体です。
おつとめ回向文
謹み敬って上來あつむる所の功徳。南無久遠實成本師釈迦牟尼仏。南無一乗妙法蓮華経。南無末法有縁の大導師高祖日蓮大菩薩。宗門歴代如法勲功の先師に回向し。天上地界護法の善神等に法楽し奉る。仰ぎ願わくは。一天四海皆帰妙法。末法萬年廣宣流布。天長地久國土安穏。五穀成就萬民安楽。家内安全息災延命。子孫長久家門繁栄。某及び家内中の面々。無始以来六根懺悔罪障消滅。國に謗法の音なくんば萬民数を減ぜず。家に讃経の勤めあらば七難必ず退散せしめん。又願わくは當家先祖代々一家一門の諸精霊。総じては法界海有無両縁の諸精霊。坐寶蓮華成等正覺。妙法経力即身成仏。願以此功徳普及於一切。我等興衆生皆共成仏道。南無妙法蓮華経。
回向(えこう)とは、朝夕の勤行や善い行いによって得た功徳(くどく/心身が整い、善い結果を招く力)を、自分一人のためだけでなく、家族・先祖・社会・すべてのいのちへ向け直して分かち合うことです。たとえるなら、灯りを一つ灯すと周りも自然に明るくなるように、私の一念が広がって多くのいのちを温めるはたらきが回向です。この回向文は日々の勤行の締めくくりにお唱えする回向文で「この功徳を広く届けます」と誓いを言葉にします。
この回向文はまず、久遠実成のお釈迦さま、始まりも終わりも超えた永遠のいのちとして今も導く仏と、宗祖日蓮聖人、歴代の祖師・先師に敬礼し、護法善神(ごほうぜんじん/法を護る神々)に法のよろこびを捧げることから始まります。ここには、「私の一座は仏・法・僧(三宝)と一体である」という道場の自覚が込められています。
つづいて祈りは、国土安穏と五穀成就へ向かいます。これは国家の安全・社会の安定、自然の恵みが十分に実ることへの祈りで、個人の幸せと社会の安定が結びついているという法華経の視野を示します。さらに、家内安全・息災延命など身近な願いを添え、生活の具体に法を行き渡らせます。功徳は観念ではなく、今日の暮らしを支える現実の力である、その確信がここにあります。
次に、懺悔(仏教では「ざんげ」ではなく「さんげ」と読む)の一節が置かれます。懺悔とは自分を責めることではなく、はるかな過去(無始以来)からの誤りを静かに見つめ、罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)、迷いの原因を洗い清める、を願う姿勢です。日蓮聖人は、題目「南無妙法蓮華経」の一念に懺悔と更新(あらたまり)の力があると教えました。家に読経があれば七難(災難の総称)が退く、と励ます句は、信行が家庭と地域の安心へ波及することを示します。
そして、先祖代々の諸霊位(ご先祖様)に功徳を回し、さらに法界(一切の世界)の有縁・無縁のいのちへと広げます。ここで唱える「坐宝蓮華 成等正覚」は、すべてのいのちが仏の座に至ることを願う言葉です。回向は、亡き方の安楽だけでなく、生きる私たちが慈悲と智慧を深める歩みでもあります。
回向の締めくくりに再び題目を唱えるのは、功徳の源を妙法に確かめるためです。題目は「受持・読・誦・解説・書写」という日蓮宗の四つの実践を束ね、仏のいのちと私のいのちを声で直結させる鍵。題目と回向を重ねるほど、私の一座は私事を越えて社会の善縁へと広がっていきます。
要するに、回向は“祈りの循環”です。私に宿った光を、先祖へ、家族へ、社会へ、そして一切のいのちへ手渡す。その行為が、また私自身の心を明るくし、次の善い行いへと背中を押す。日々の勤行の最後に回向文を丁寧に唱えることは、法華の慈悲を生活に根づかせる、やさしくも力強い実践なのです。
追善供養 回向文
上來鳩るところの功徳をもって今日○○忌に相値処の○○霊位別しては○○家先祖代々の諸精霊に回向し報地を厳浄す。仰ぎ願くは一切の三寶哀愍加持し給え。専ら祈るところは○○霊位。白業縁起の寶土に於いて回向供養の法楽を受け。無始の重障を滅除し。親り諸仏を見奉ることを得。妙法を聴受し。三因を開発し。三徳を資成し。この寶乗に乗じて普く法界に遊び。疾く道場に趣いて仏知見を開き。寶蓮華に坐して等正覚を
成ぜんことを。妙法経力即身成仏。乃至法界平等利益。南無妙法蓮華経。
追善供養(ついぜんくよう)の回向とは、私たちが読経や善い行いによって得た功徳(くどく:心身が整い善い結果を招く力)を、亡き方へさし向ける=向け直す祈りです。亡き人の歩みを助けるために、いまここで積んだ善根を“贈る”。これが回向の基本の心です。法事では、その場の功徳を具体の方へ届かせるため、「今日の○○回忌にあたる○○霊位(れいい)」と、故人のお名前や戒名をはっきりお唱えし、さらに先祖代々にも広く及ぼします。
回向文はまず、三宝(さんぼう)=仏・法・僧への礼讃から始まります。仏は久遠実成、始めも終わりも超えて今も導くお釈迦さま、法は妙法蓮華経(法華経)という真理、僧は日蓮大聖人やその法を受け持ち弘める清浄な集いです。私たちは三宝の慈悲と加護を願い、「この一座を仏の道場として清め、功徳の流れを整えてください」と祈ります。ここでいう加持とは、仏の働き(加)と私たちの信と実践(持)が重なって力が発動することを指します。
つづいて、功徳を受ける故人の歩みが祈られます。まず、亡き方が清らかな浄土で供養のよろこびを受け、罪障消滅、過去の迷いの因を清める、が進むよう願います。さらに、諸仏との出会いに恵まれ、法華経を聴聞し、仏の智慧に目覚めるよう祈ります。これは抽象ではありません。読経・唱題の声が具体の功徳となって、迷いに曇った心を少しずつ澄ませ、正しい方向へと歩ませる、その働きを請い願うのです。
回向文には、成仏に向かう力をあらわす語が続きます。三因は「仏になる因(たね)を開く智慧・実践・慈悲」の総称、三徳は「仏の三つの徳=法身(ほっしん:真理そのもの)・般若(はんにゃ:智慧)・解脱(げだつ:自由)」を指します。これらを備え、法の宝の乗り物に乗って迷いの彼岸へ渡る、という譬えが示されます。終盤の「蓮華座」は清浄の象徴、「等正覚」は仏のさとりの完成を意味します。すなわち、「故人が妙法に抱かれ、確かなさとりへ近づいていくように」という道のりを、一句一句で丁寧に祈っているのです。
要するに、追善の回向は「恩を忘れず、功徳を分かち、共に成仏の道を歩む」誓いの言葉です。故人を想いながら声を合わせるたび、悲しみは感謝と決意へと姿を変え、残された私たちの生き方も静かに整っていきます。日々の唱題に今日の回向を重ね、故人の安楽と、私たちの精進を一つの祈りに結び直していきましょう。
回向伽陀
願以此功徳
普及於一切
我等與衆生
皆共成仏道
回向伽陀(えこう かだ)は、回向(えこう)の締めくくりに唱える短い偈(げ:韻律をもつ仏教の詩)を、声明(しょうみょう:仏教声楽)として丁重にうたい上げる一節です。文句は――「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」。意味は「このお勤めで積んだ功徳(くどく:心身を整え善い結果を招く力)を、私を含むすべてのいのちに広く行き渡らせ、みなが共に仏の道を成就しますように」という誓いです。
回向伽陀は回向を唱えた後に導師が独唱します。回向文の本文でも同じ句をすでに読み上げていますが、あらためて声明の節で独唱するのは、場を代表して願いを一点に結び、功徳の方向を「自分」から「一切衆生(いっさいしゅじょう:すべてのいのち)」へと確かに向け直す(回向)ためです。声の抑揚と余韻が、参列者の心を一つに束ね、功徳を広く・普く(あまねく)行き渡らせるはたらきを強めます。
ここでいう「功徳を普及於一切」とは、功徳を私有化せず、先祖・ご縁ある人びと・地域社会・自然界に至るまで等しく分かち合うという誓願です。日蓮宗の実践では、題目「南無妙法蓮華経」を根本に、受持・読誦・解説・書写(教えを受け持ち、読み、伝え、写す)を重ねて功徳を育みます。回向伽陀は、その功徳を声で世界へ開く“最後のひと押し”であり、読経の功徳が「私の安心」にとどまらず「みんなの成長と安穏」へ広がる道筋を明らかにします。
また、偈を声明で唱える意味は、言葉の内容を理解するだけでなく、音の力で心身に刻むところにあります。旋律にのった一息一音が、迷いを鎮め、慈悲と連帯の感覚を呼び覚ます。導師の独唱に耳を澄まし、参列者は静かに合掌して呼吸を合わせる、その一座の調和自体が、すでに「功徳を分かち合う」営みです。
要するに回向伽陀は、法要全体で生まれた功徳を世界へ解き放つ締めくくりの声明です。導師が独唱し、私たちは心で唱和する。その一体感のうちに、「自他ともに成仏の道へ」という日蓮の誓いが、今日の現実へ確かに受け渡されていきます。
祈願文
南無佛 南無僧 南無一乗妙法蓮華経
ご祈祷ご本尊 南無最上位経王大菩薩 為悦衆生故 現無量神力 八大龍王 三面大黒天 南無七十七末社諸天王 ことには開祖報恩大師魔訶上人
各々 来臨影現 知見照覧 ご法味納受
一乗の行人 信行清浄の祈願によって修し奉る経王秘妙 厳秘段 修練加持
この功力を得て願主○○殿志すところ 【家内安全・身体健全・心願成就】
この功徳をもっては 例え年の難月の難 日の難 時の難等あるといえども 大難は小難に 小難は無難に変じ 転じて息災延命とご守護なさしめたまえ
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道 乃至法界平等利益
南無妙法蓮華経
この祈願文は、心願(しんがん:願い事)をもってお勤め(読経・唱題)の結びに読み上げ、いま積んだ功徳(くどく:心身を整え善い結果を招く力)を願主とその縁ある人々のために確かに働かせるための文言です。冒頭の「南無佛 南無僧 南無一乗妙法蓮華経」は、仏(久遠実成の釈尊)・僧(日蓮大聖人)・法(法華経)へ帰依をあらためて表明する宣言で、続く祈りの土台を固めます。
妙輪寺の祈願では、最上三尊を勧請(お招きして臨席を請うこと)します。中心は最上位経王大菩薩(さいじょういきょうおうだいぼさつ)で、法華経(経王)の徳を体した稲荷信仰の本地尊として、家内安全・事業繁栄・五穀成就を守護する存在といただきます。あわせて八大龍王(水と天候、いのちの循環を司る守護)や三面大黒天(福徳・実行力・財の循環を象徴)、七十七末社諸天王(地域を守る諸天善神)を名指して礼請し、稲荷祈祷の開祖「報恩大師魔訶上人」への報恩を捧げます。文中の「来臨影現・知見照覧・ご法味納受」は、「どうぞお越しになり、わたしたちの祈りを見聞きし、法の供養をお受け取りください」という丁重な請願です。
「一乗の行人 信行清浄の祈願によって修し奉る経王秘妙 厳秘段 修練加持」とは、一乗(いちじょう:だれもが成仏へ至る唯一の道=法華経)を歩む者が、清浄な信行(信じて行ずる心と実践)をもって真剣に祈ることを誓う句です。ここでいう加持は、仏のはたらき(加)と行者の受持(持)が重なって功徳が発動すること。祈りを現実の力へと“おろす”仕組みを指します。
願主の所願は「家内安全・身体健全・心願成就」など具体に挙げます。これらは祈願の一例なので、願主を志す祈願内容をここで読み上げます。続く「大難は小難に、小難は無難に変ず」は、日蓮聖人の教えに基づく難即安楽の祈りです。題目南無妙法蓮華経と受持・読誦・解説・書写を根本に、来るべき障りを軽く転じ、息災延命(災いを息み、いのちを伸ばす)へ導くことを請い願います。ここで祈りは私益にとどまらず、家庭・職場・地域の安穏へと広がっていきます。
なお、この祈願文は妙輪寺での次第に即した一例です。もし最上三尊をお招きしての祈願ではない場合は、青文字で示す部分(勧請の尊名など)は、その菩提寺・勧請の諸天善神に合わせて置き換えてください。妙輪寺では最上三尊を勧請するためこの構成となっていますが、たとえば鬼子母神や毘沙門天など別の御守護で祈願する場合も、青文字の箇所を相応の尊名に変更し、それら諸天善神の勧請を心から願えば作法に適います。大切なのは、妙法を根本に、祈りの主旨と縁起に即して“誰をお招きし、何を願い、どう回向するか”を明確に言葉にすることです。題目で心を定め、祈願文で道を整え、回向で功徳を広く分かち合う――その三拍子が、日々の祈りを確かな力へと変えていきます。
四弘誓願(四誓)
衆生無辺誓願度 煩悩無数誓願断
法門無尽誓願知 仏道無上誓願成
四弘誓願(しぐせいがん)は、仏道を歩む者が必ず胸に刻む四つの誓いです。どの宗派でも法要の結びに唱えることが多いのですが、文言や読み回しは宗派ごとに少しずつ異なります。日蓮宗では、この四誓を『法華経』の実践に立ち上がる四菩薩――上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)の精神に重ねて受けとめ、題目「南無妙法蓮華経」とともに唱えて生活の誓約とします。
まず「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど)」。救うべきいのちは無辺、尽きることがない、だから救済を誓う、という誓いです。ここに響くのは無辺行菩薩の徳。「無辺」とは境目がないこと。自分と他人、内と外の線引きを超え、目の前の人に届く慈悲を果てなく広げる姿勢を学びます。日常では、偏りや好き嫌いを超えて声をかけ、助け、励ます小さな実践がこの誓いの核心です。
つぎに「煩悩無数誓願断(ぼんのうむすう せいがんだん)」。迷い(煩悩)は数知れませんが、それでも断ち続けると誓います。対応するのは浄行菩薩。浄行の「浄」は身口意(しん・く・い:からだ・ことば・こころ)を清らかに保つこと。怒り・妬み・怠りなどが芽生えたら、題目で心を整え、言葉と行いをもう一度やさしさへ戻す。この地道な更新が「断」の中身です。
三つ目は「法門無尽誓願知(ほうもんむじん せいがんち)」。教え(法門)は尽きることがない、だから学び、工夫して伝えると誓います。ここは上行菩薩が導き手。上行の「上」は先頭に立って進むこと。学んだことを自分の言葉に置き換え、家族や友人、職場の同僚にわかる言い方でシェアする――その一歩が「知(しる)」の実践です。受け取って終わりではなく、伝えることで自他ともに学びが深まります。
最後に「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)」。仏への道は無上、これ以上ない道である、だから必ず成し遂げると誓います。担い手は安立行菩薩。安立の「安」は動じない安定、「立」は正しく立つこと。揺らぎやすい現実のなかで『法華経』をよりどころに不退転(ふたいてん:退かない)の心を養い、課題の前から逃げない。続ける力こそが「成」の実体です。
ここで用語も整理しておきます。四弘誓願は仏道の四つの到達目標ではなく、日々の方向づけそのもの。日蓮宗では、これを四つの実践、受持(じゅじ:受け持って離さない)・読誦(どくじゅ:暗記し声に出して読む)・解説(げせつ:自分の言葉で伝える)・書写(しょしゃ:書き写して身につける)と題目に結び、暮らしの中で一歩ずつ形にしていきます。
法要の最後に四弘誓願を唱えるのは、読経でいただいた功徳を「生き方の約束」へと結び直すためです。つまり、いまこの場から人を励まし(衆生無辺)、自らを磨き(煩悩無数)、学び伝え(法門無尽)、志を貫く(仏道無上)。題目とともに唱えることで、誓いは抽象で終わらず『法華経』の実践=日々の選択に直結します。今日の四誓は、明日の一歩を支える羅針盤です。
奉送
唯願諸聖衆 決定證知我
各到隨所安 後復垂哀赴
「奉送(ぶそう)」は、法要の最後にうたい上げる声明です。冒頭で唱える「道場偈」が、仏(久遠実成の釈尊)・法(妙法蓮華経)・僧(日蓮大聖人)という三宝を道場へお迎えする“開場の声”だとすれば、奉送は、お迎えした聖衆=仏・諸菩薩・護法善神を丁重にお送りし、法会を円成(えんじょう)させる結びの声です。読経と題目でいただいた功徳を胸に刻み、これからの精進へ持ち帰るための大切な一節と受けとめます。
「ただ願います。諸々の聖なる集い(仏・菩薩・護法)が、今日の私たちの誓いをまさしくお認め(證知:しょうち)ください。どうぞそれぞれの御座へと安らかにお還りください。そして後ののち再び、慈悲を垂れて(垂哀:すいあい)この場へおいでください。」、すなわち、“受けた功徳を糧に成仏への道を歩みます。どうかその決意を証(あかし)してください。今日は御還座(ごかんざ)を、またいつの日かお導きを”という、感謝と決意と再会の願いを一息で言い表した言葉です。
日蓮宗においては、奉送は単なる見送りではありません。法華経の受持・読・誦・解説・書写の実践へと功徳の向きを切り替える瞬間です。読経の最中にいただいた安心と気づきを、家庭・職場・地域の具体の行いへ結び直す。その“生活への橋渡し”を声で確かめます。法要の終わりに奉送をお唱えし、参列者は静かに合掌して心を合わせる所作自体が、功徳を広く分かち合う回向の働きを強めます。
